『日本書紀』に出雲神宝事件が書かれています。

 

出雲王国の崩壊とヤマト王権への追従を表わしているという歴史家もいます。その出雲の神宝とはなんだったのでしょうか?

 

 

出雲神宝事件とは?

 

『日本書記』巻五の崇神天皇の項に書かれています。これは、古墳時代前期頃(あるいは弥生時代末期)と考えられているようです。

 

概要

 

 

第10代天皇である崇神天皇は、「武日照命(たけひなてるのみこと)が天から持ってこられた神宝が、出雲大神の宮に収めてあります。これを見たい。」とおっしゃり、 矢田部造(ヤタベノミヤツコ)の先祖の武諸隅(たけものろすみ)を出雲に派遣しました。

 

※出雲大神の宮とは、杵築大社(出雲大社)の説や松江市の熊野大社との説もあり。その時代に、杵築大社あるいは熊野大社があったかは不明です。

 

出雲の登場人物

 

 

 

出雲臣の先祖の出雲振根(いずものふるね)がこの神宝を管理していました。

 

しかし、筑紫の国(つくしのくに)に行って留守にしていました。

 

だから、出雲振根の弟の飯入根(いいいりね)が代わりに話を聞き、弟の甘美韓日狹(うましからひさ)と子の鸕濡渟(うかづくぬ)とに持たせて献上しました。

 

 

出雲振根が筑紫から帰ってきました。

 

簡単に神宝を朝廷に献上してしまったことを聞き、弟の飯入根を責めました。

 

 

それから 何年か経ちましたが、出雲振根の怒りは増すばかりでした。出雲振根は、飯入根を殺そうと思い、【止屋(やむや)の淵】に呼び出しました。

 

 

出雲振根は、外から見たら、本物の太刀に見える木刀を作り、それを身に着けていました。飯入根の方は、本物の太刀を身に着けていました。

 

淵のそばに行って出雲振根は、「淵の水がきれいだ。一緒に水浴しよう。」 と言いました。二人は、衣服と太刀を置いて、水に入りました。

 

 

出雲振根は先に上がり、飯入根の方の本物の刀を取り、自分に差しました。後からの弟は驚いて兄が着けていた太刀を取りましたが、偽物の太刀なので抜けません。切り合いになり、 飯入根は出雲振根に斬り殺されたのです。

 

伝承地の一つ 止屋(やむや)の淵 島根県出雲市大津町上来原池ノ内

 

 

 

時の人は歌に詠みました。

 

八雲立つ 出雲梟帥が 佩ける太刀 黒葛多巻き さ身無しに あはれ

 

ヤクモタツ イヅモタケルガ ハケルタチ ツヅラサハマキ サミナシニ アハレ 

 

出雲健(いずもたける)が 侃(は)いていた太刀は、葛がたくさん巻かれてあったが、中身がなくて気の毒だった。

 

※ ここでは、出雲振根に殺された飯入根がイヅモタケルということになります。

 

『古事記』にも、同様の話があります。第12代天皇である景行天皇の時代、ヤマトタケルがイヅモタケルを斐伊川の淵で切り殺す話になっています。

 

 

甘美韓日狹(うましからひさ)と鸕濡渟(うかづくぬ)は朝廷に行きそのことを報告しました。

 

そして、朝廷は吉備津彦と武淳河別(たけぬなかはわけ)を派遣して、出雲振根を殺させました。

 

出雲臣等はこの事を恐れて、しばらく出雲大神を祭らなくなりました。

 

 

丹波の氷上(ひかみ)に住む氷香戸辺(ひかとべ)が、皇太子・活目尊(後の垂仁天皇)に伝えました。

 

「私のところの小さな子供が、歌っています。

 

〝水草の中に沈んでいる玉のような石。出雲の人の祈り祭る本物の見事な鏡。力強く活力を振るう立派な御神の鏡。水底の玉。宝の主。山河の水の洗う御魂。沈んで掛かっている立派な御神の鏡。水底の宝。宝の玉。〟( 宇治谷 孟 訳 『日本書記(上)』 講談社学術文庫)

 

これは子どもの言葉のようではありません。あるいは神がかりして言っているのかもしれません」と言いました。

 

皇太子は天皇にそのことを話されました。天皇は命令を降ろし、鏡を祭るようにしました。

 

この話によれば出雲で祭っているのは鏡のようです。龍神ということを表わしているのでしょうか。

 

鏡と水辺の祭祀

 

全国に「鏡池」という名をもつ池が多いです。水面が鏡のように美しく顔を映すことから、そう名づけられることが多いですが、実際に、古鏡が多数発見される場合も多いです。

 

山形県の出羽神社正殿前の鏡ガ池からは、200面以上の古鏡が見つかり、うち90面は平安時代のものとされています。

 

鳥取県の菅福神社(すげふくじんじゃ)では、孝霊天皇が川に鏡を沈めて祭祀を行なったという伝承があります。( 菅福神社の伝承

 

参考 【蛇─龍神と鏡の関係】

 

龍は水神であると書かれた本はたくさんありますが、鏡と龍(蛇)については吉野裕子氏の著作があります。(吉野裕子著 『蛇 日本の蛇信仰』

 

 

中国伝来の「鏡」(きょう)が「カガミ」と訓(よ)まれた理由は、鏡が古代日本人によって「蛇(カカ)の目(メ)」つまり「カガメ」として捉えられたからではなかろうか。「カガメ」は容易に「カガミ」に転訛する。(『蛇 日本の蛇信仰』 講談社学術文庫)

 

 

蛇の象徴である鏡を池底に沈めることは、蛇のもっとも好む水に蛇を返すことを意味する。それほどまでにして蛇の意を迎えようとする、そのことが祈雨の祭祀、あるいは呪術につながるのである。

 

また、蛇は祖先神でもあるから、蛇つまり鏡を水に返すことは祖先祭につながっていたことも考えられる。(『蛇 日本の蛇信仰』 講談社学術文庫)

 

止屋の淵 二つの伝承地

 

1) 出雲市 阿世利池

 

 

この場所は、弥生時代の出雲王の墓と言われる西谷墳墓群の麓に位置します。出雲神宝事件の舞台地に選ばれているのも、西谷墳墓群を暗示させているような気がしてきます。

 

西谷墳墓群

 

 

現在の地名は、塩冶(えんや)と呼ばれていますが、『出雲国風土記』(733年)には、塩冶(やむや)と呼ばれていました。

 

 

塩冶郷(やむやごう)。

 

郡家の東北六里の所にある。阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)の御子、塩冶毘古能命(やむやひこのみこと)が鎮座していらっしゃった。だから、止屋(やむや)という。〔神亀三年に字を塩治と改めた。〕(島根県古代文化センター編 『解説 出雲風土記』 今井出版)

 

江戸中期の地誌である『雲陽誌』には具体的な場所として、阿世利池の名前が書いてあります。

 

今は現存していません。

 

『出雲国風土記』に「阿須理社」(あすりのやしろ)という神社の名前が見えます。この神社は、昔は阿世利池の近くにあったようです。

 

 

神門郡 石塚

 

阿世利池

 

里民相伝 昔 八岐大蛇この池に入てあせりたりといふ、これをもって池の名とせり、土俗転倒するをあせるといふ、旧記に夜牟夜淵あり、此所なり、出雲の振根 弟飯伊利根を殺せし時 血流れて池中に入 故に阿世利池といふ 【延喜式】に血をもって汗と称す 則 血入池(あせのりいけ)と書へきか、

 

斐伊川の淵であった場所が、いつしか閉じて、池に変化したのでしょう。「あせ」が、「転倒」の意味か、「血」の意味か不明ですが、八岐大蛇が登場するのは、龍神と関係した伝承だったのかもしれません。

 

阿世利池は消滅

 

江戸初期まで阿世利池は存在したのですが、慶長から元禄にかけて、斐伊川の水を高瀬川にひくための、岩樋が作られました。(1700年に完成)

 

しかし、池の溜り水が抜け、逆に斐伊川から土砂が流入することとなっていましました。

 

『出雲風土記抄』(1683年)『雲陽誌』(1717年)の書物には阿世利池が書かれていますので、消滅したのはその後と思われます。

 

来原岩樋

 

 

阿須利神社

 

阿須利神社 島根県出雲市大津町3668

 

 

現在の主祭神は、豊玉比古神・ 豊玉比女神・ 玉依比女神・ 大己貴神となっています。

 

豊玉比古神は、海神であり、豊玉比女神・ 玉依比女神は、その娘です。

 

鎮座する大津の「津」は港であり、今からは想像できませんが、江戸時代まで斐伊川の水運の港があったから、海や船にちなむ神々が祭られていると推察されます。

 

海端でもないのに、境内社に恵比寿神社が3社あります。

 

鎮座地の変遷

 

阿須利神社は、江戸から明治にかけて鎮座地が何度も変わっています。

 

阿須利神社は元々、阿世利池の西側に杓子山という丘があり、そこに鎮座していました。

 

そして、元禄十三年(1700年)に、阿世利池の南方の三谷神社(現在は、西谷9号墳墓の上に鎮座)に移されました。

 

さらに、明治23年(1890年)に八幡宮と共に、現在地の大津町の龍王社跡地に移ってきました。

 

2) 雲南市 神原神社

 

加茂岩倉遺跡が近くにある大黒山と赤川

 

 

神原神社の鎮座する地域は、奈良時代は、神原郷(かんばらごう)でした。

 

神の御宝が置かれた所

 

神原郷(かんばらごう)。

 

郡家(ぐうけ)の正北九里(り)の所にある。古老が伝えて言うには、所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)が、神御財(かみのみたから)を積み置かれたところである。

 

それで神財郷(かんたから)というべきだが、今の人はただ誤って神原郷と言っているだけである。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

現代ではその宝を加茂岩倉遺跡で出土した銅鐸(どうたく)を想像する人が多いですが、土井・砂古墳群から出土した内行花文鏡(ないこうかもんきょう)の破鏡(破片)や神原神社古墳から景初三年銘のある三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)などの鏡も、神原郷から発見されています。

 

景初三年銘のある三角縁神獣鏡  島根県立古代出雲歴史博物館にて展示

 

 

※土井・砂遺跡  赤川の南岸あり、古墳時代初頭の古墳6基と古墳時代後期から終末期の横穴墓7穴からなる遺跡。1号~4号墳、6号墳はいずれも方墳。5号墳は長方墳(8×13m)。

 

※内行花文鏡  ここから出土したものは、後漢初期(1 世紀前半)のものとされている。

 

※三角縁神獣鏡のうち、銘文中に魏の年号が記された鏡が4面あり、うち神原神社古墳から出土したものだけが「景初三年」(239年)であり、他3面は正始元年(240年)である。銅鏡全体では、「景初三年」の銘文があるものは2面あり。

 

出雲振根と飯入根の墓

 

『雲陽誌』(1717年)には、大津の阿世利池のみならず、神原の地の伝承を載せています。

 

ここには、出雲振根のお墓(「兄塚」)と飯入根の墓(「すくも塚」)と呼ばれている墓があったそうです。

 

川  大東加茂より流て簸の川に入、

 

土手 上神原より下神原の間千四百間あり、此土手下を昔止屋の淵といふ、松井淵ともいふ、里俗つたふる、

 

   歌

 

   八雲路や松井の水の清けれは

 

     八百萬代の神は御手洗水(みたらし)

 

兄塚 振根の墓なり、塚頭古木あり、

 

すくも塚 入根の墓なり、松の老樹あり、

 

大舎押 神腹の中の高山なり、古振根隠たるところなり、

 

また、神原神社の由緒にも、その出雲振根が隠れたという山のことが書かれています。

 

神原郷の東西に大舎押山、小舎押山が対峙してそびえ立っていました。

 

大舎押山は兄・振根の領地で小舎押山は弟・飯入根の領地でした。互いに領地を巡り相争っていたこともあったそうです。

 

神原郷だけでなく、大原郡の古い郡家(お役所)があったのではないかと言われている幡屋(はたや)にも、出雲振根と飯入根の伝承がありました。

 

大将軍の神木

 

大原郡幡屋村大字幡屋に、大将軍御神木といふ老松樹がある。周囲が一丈数尺もあって、青々と繁茂して居る。

 

古老の口碑に依ると、崇神天皇の六十年に、出雲の遠祖振根が、・・・・中略・・・・・両将軍は意宇の方面から這入し、

 

字天場で神事を行はせられた。(天場の號此時に初まる)土人は其威徳により、大将軍の名を称へ松を植えて神木とし祭った。

 

維新以後神事は行わぬやうになった。 (『島根県口碑伝説集』島根県教育界編 昭和2年)

『雲陽誌』(1717年)にも、確かに「大将軍」と記載あります。ここには、二人とも意宇(東出雲の方)から来たと書いてあります。

 

神原神社と宝

 

神原神社 島根県雲南市加茂町神原1436
赤川拡張工事の前は(1972年)までは、50メー トル北の赤川の近くに鎮座していた。

 

 

『出雲国風土記』に書かれている話から推察すると、神原(かんばら)神社の神社名は、大古「神財(かんたから)神社だったのかもしれません。

 

神原古墳からは、出土した三角縁神獣鏡ばかりが注目されていますが(魏志倭人伝記載の邪馬台国女王卑弥呼が魏から賜った100枚の鏡の一つであったか?)、鉄製素環頭大刀 、 鉄製直刀 、 鉄剣 などの鉄の剣も出土しています。

 

なお、太古から神原古墳を御神体のように神原神社がその上にずっと鎮座していたように思われていますが、社伝によると、「今の赤川に対岸、オ明寺の東南に今も字松井原の東南端」に鎮座していたそうです。

 

祭神 磐筒男命・磐筒女命

 

「現在の」祭神は、大国主命・磐筒男(いわつつのお)命・磐筒女(いわつつのめ)命です。宝永 5年(1708年) に広沢漆拾によって書かれた「神原神社縁起」には、磐筒男命・磐筒女命が祭神とされています。

 

磐筒男命・磐筒女命は、聞きなれない神ですが、刀剣にまつわる神と言われています。

 

また物部氏の祭る経津主神の親神とも言われています。2度の神宝検校でヤマト王権から派遣されたのが物部氏(武諸隅・物部十千根)であったので、そのことが関係しているかどうかはわかりません。

 

神社の由緒書きに見ると、刀剣も神宝であったようです。驚くようなことが書いてあります。

 

大原郡斐伊社を武蔵国の氷川神社として勧請する際に、神原神社に伝わる出雲神宝・十握剣 (とつかのつるぎ)を氷川神社に献上したといいます。

 

本物の剣をあげたので。その模造品の剣を神原神社の神宝としたとあります。

 

古博二曰ク嘗テ(年代不詳)大原郡斐伊社ヲ武藏國二氷川神社トシテ勧請セラルル二際リ當社二伝ハル出雲神宝十握剣ヲ以テ其ノ御神霊ノ御霊代二奉献ス而シテ其ノ十握剣ヲ模写セシメ永ク當社ノ神宝トセラル今ノ宝剣即チ是ナリト因二記ス十握剣模写ノ宝剣ハ現存セシ

 

長サ式尺壱寸白鞘ニテヒノカハ上ヤマトノ住人久次(カタカナ書)ノ銘アリシモノ或ハ是ナラント爾ルニ其ノ宝剣ハ安政四年九月ノ度時ノ祠掌山本武凌ノ頃氏子惣代多々納光次郎日野恵藏勝部四郎右衛門速水儀一郎中林健藏及戸長中林祐之助等連書ノ神原神社宝物古器物古文書目録二価テ顕著タリ 

 

又現今ノ氏子中ニモ数多其ノ宝剣ヲ拝観セシモノアリシト雖モ爾後藪次神職ノ交替アリ殊二前杜掌物故ノ現今其ノ所在尚未タ分明ナラス

 

神原神社の近くには、須佐之男命が天照大御神に献上したという天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)の伝承地があります。

 

尾留大明神 旧跡地  島根県雲南市加茂町三代522

 

 

御代神社の伝承

 

(八岐大蛇)の頭は下神原の草枕に、その尾は三代の地に斬り留められたと伝えられ、これを以て中世以来、社号を尾留大明神と称せられた。

 

特筆すべくは、元の御代神社の社地辺りが三種の神器の一つ天叢雲剣の発祥地である。

 

オロチあるいは龍の体形そのものが剣の形をしており、剣がその例えであったとしたら、斐伊川・その支流の赤川の川の神としての龍神は即ち剣を表わしていたのかもしれません。

 

そういう風に考えますと、赤川の周辺にもどこかに、荒神谷遺跡のような剣がまだ積み置かれたような想像もできます。

 

考証

 

出雲神宝事件をいつの時代を投影したものか様々な説があります。

 

ある説では、崇神天皇頃、つまり弥生時代から古墳時代前期の頃、あるいは、古墳時代後期の蘇我氏全盛時代などです。神話舞台地がほとんど西出雲(出雲市や斐伊川流域)であり、西出雲勢力が滅ぼされ、ヤマト王権に組み入られたとする考え方です。

 

西出雲は、西谷墳丘墓のように、出雲王の墓とも言われる大型の四隅突出型墳丘墓が何基も築造された地域でありながら、古墳時代時代になると、大型の古墳はほとんど発見されていません。片方で、東出雲(松江市・安来市周辺)は前期から後期まで大型の方墳、前方後方墳が築造されてきた地域です。

 

歴史の世界では、西出雲の勢力を「杵築(キヅキ)」の勢力、東出雲の勢力を「意宇(オウ)」の勢力と表現されたりします。

 

出雲国には、二つの大きな勢力があったとされています。

 

出雲振根の兄弟喧嘩ではなく、東西の首長層の対立する説が多いのです。

 

「原出雲王権」の終焉説

 

郷土史家、速水保孝氏の説です。

 

「原出雲王国」がどこらへんまでの領域をいうのかわかりませんが、西出雲に弥生時代の終わりにはすでに王権があったということです。

 

弥生末期の四隅突出型墳丘墓からの古墳時代における断絶を原出雲王国の滅亡時期ではないかとしています。

 

四世紀の初め、列島統一に乗り出したヤマト王権は、原イツモ王権を屈服させるために、当時、東イツモの地に急成長していた意宇氏を懐柔。後に全イツモの王者にしてやることを条件に、ヤマト・オウ連合が成立。内部崩壊から孤立した原イツモはついに滅亡。
ヤマトは約束通りに原イツモの旧領を意宇氏にゆだねる。( 『原出雲王権は存在した』 山陰中央新報社)

 

そして、フルネ(出雲振根)を原出雲国王とし、イリネ(飯伊利根)を意宇王をあてたらよくわかる としています。

 

西出雲がどこかの時代かには滅亡したとは思われますが、東出雲とヤマト王権と連合して西出雲を滅亡させたとのこの説の証拠はどこにもありません。そこは、井上光貞説が踏襲されているのではないかと思われます。

 

井上光貞説

 

まだ西谷墳丘墓群や荒神谷遺跡が発見されていない時代に書かれた本です。

 

井上光貞氏は、西部出雲の平定を崇神天皇の頃ではなくて、「六世紀に近いころ」と見ています。

 

国譲り神話や神宝事件をどう考えるかという話です。

 

以下、引用は 『大化改新』(1954年 要書房発行。補訂版1970年 弘文堂書房発行)です。

 

上流に熊野神社をもつ意宇川流域一帯と、下流に杵築大社のある簸川流域一帯とは、古墳の分布状態(斎藤忠氏の古墳地名表では前の地帯に三十一、後の地帯に六、また島根半島に十一の古墳をあげている)、古代神社の分布密度(風土記、神明帳)からみて、特にきわだっている 

とした上で、「オウ」の勢力と「キヅキ」の勢力を規定します。

 

西部出雲を代表する 今市大念寺古墳
西部の古墳時代後期は、前方後円墳・円墳体制だと言われている。

 

 

そして、国譲り神話とは、葦原の中津国の国譲りではなく、

出雲平定とはキズキの平定のことであることがわかる。これに反しオウの勢力は、大和朝廷の側にたっており、またこの氏が国造となったようである。

 

そして以下のように結論づけます。

大和朝廷による出雲の征服とは出雲一帯を支配した支配したキズキの勢力との戦いで、そのさいオウの出雲氏は朝廷に加担し、その結果、国造に任じられたものであること、その征服は武力を伴なうと共に祭祀権の収奪でもあったこと、征服とは土着社会の秩序を破壊することではなくて、在来の身分関係を保存しつつその秩序のまま部制に再編するものであったことなどである。

 

東部出雲を代表する 山代二子塚古墳 
東部の古墳時代後期は、前方後方墳・方墳体制だと言われている。

 

 

関連記事⇒ 国譲り神話と出雲大社創建(2) 見立て 

 

『出雲国風土記』 出雲郡健部郷の由来 【神門臣古彌】

 

出雲振根は、神門臣古彌か?

 

『出雲国風土記』には健部郷(たけるべごう)の地名由来をこう述べています。

 

健部郷(たけるべごう)。

 

郡家の正東一十二里二百二十四歩の所にある。先に宇夜里(うやのさと)と名づけたわけは、宇夜都弁命(うやつべのみこと)がその山の峰に天から降っていらっしゃった。

 

その神の社が今にいたるまで、なおこの場所に鎮座していらっしゃる。だから、宇夜里といった。

 

後に改めて健部と名づけたわけは、纏向檜代宮御宇天皇(まきむくのひしろのみやに あめのしたしらしめしし すめらみこと)(景行天皇)がおっしゃられたことには、「わたしの御子、倭健命(やまとたけるのみこと)の御名を忘れまい」と健部をお定めになった。

 

そのとき、神門臣古彌(こみ)を健部とお定めになった。健部臣たちが古から今までずっとここに住んでいる。だから、健部という。(島根県古代文化センター編 『解説 出雲国風土記』 今井出版)

 

健部郷は、荒神谷遺跡が発掘された地域です。現在でも「武部」という地名として残っています。

 

「健部」は、景行天皇の御子であるヤマトタケルの命の名に因んだ名代(なしろ)と言われます。

 

名代とは?  

 

大化改新前の天皇,皇后,皇子の名をつけた皇室の私有民。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 )

 

『出雲国大税賑給歴名帳』(天平11年)においても戸主の姓氏が実際に確認できます。(扶養を要する高年の者や年少者の属す戸主の姓氏だけ記載されたもの)

建部郷(六十五名記載、全員数不明)

 

 建部臣 十三戸 建部首 一戸 建部 四戸

 

 語部君  ニ戸 語部 一戸 鳥取部首 一戸  掃守首 一戸 

 

 日置部 一戸 弓削部 二戸  物部 一戸  印支部 一戸 間人部 一戸 争戸 一戸

 

江戸時代において、神門臣古彌(こみ)を「かんどのおみふるね」とルビを打つ本があり、現代でも同一人物説があります。

 

ヤマトタケルにイズモタケルが止屋の淵で、だましうちに殺される『古事記』の話を思い浮かびます。

 

本来ならば、「宇夜郷」になるはずだったのに、景行天皇の勅命で、健部が置かれ、「健部郷」になったということをあえて書いているところが、西出雲がヤマト王権に組み敷かれたということを暗示している書き方に思えます。

 

ただ、出雲臣の祖の出雲振根は、『古事記』には登場せず、『日本書紀』では、崇神天皇の時代に誅殺され、ヤマトタケルは登場しないのです。

 

ヤマトタケルに由来する建部が設けられたことと、出雲西部の代表的な氏族である神門臣氏がいつの時代かヤマト王権とつながるに到ったということがわかります。

 

『姓氏録』における登場人物

 

『新撰姓氏録』(815年)から出雲臣の系譜を抜き出してみました。

 

『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』とは?

 

嵯峨天皇の命により平安初期の弘仁6年に、作成された氏族の祖先や系譜を書かれた書物。

 

京および畿内に住む1182の氏族を「皇別」・「神別」・「諸蕃」の3種類に分類して記載されている。

 

出雲臣一族は、出雲国ばかりでなく、京および畿内にも登場します。出雲国から進出したのか、逆に出雲国に進出したのか、本当ところはわかりませんが、一般的には出雲国から進出したと解釈されています。

 

鸕濡渟命を祖とする神門臣

 

左京  神別 天孫 出雲宿祢  天穂日命子天夷鳥命之後也

 

左京  神別 天孫 出雲    天穂日命五世孫久志和都命之後也

 

右京  神別 天孫 出雲臣   天穂日命十二世孫鵜濡渟命之後也

 

右京  神別 天孫 神門臣   同上

 

山城国 神別 天孫 出雲臣   同神子天日名鳥命之後也 

 

山城国 神別 天孫 出雲臣   同天穂日命之後也

 

神宝事件に関係した人物「鵜濡渟命」の名前が登場しますが、出雲振根命の名前は登場しません。

 

同様に、問題の神門臣の系譜もあり、「同上」とあります。西出雲を拠点としている氏族なのに、なぜ?と思ってしまいます。

 

この系譜をどうみるかですが、よく「新興氏族 神門氏」と書いてある本を見ますが、単純に考えれば出雲臣の分家です。

 

分家だから後から起こった氏族のようにも見えますが、

 

母族 神門臣が、たとえば鵜濡渟命を婿に婚姻関係が発生することで、祖変が起こったと仮定すると、分家ではないとも言えます。

 

(古代の結婚は夫婦帯同ではないとも言われますので現代の結婚をあてはめると混乱します。)

 

飯入根命を祖とする土師氏

 

出雲臣と同族とされる、土師氏(はじし)ですが、相撲の元祖と言われる野見宿祢か、神宝事件に登場する飯入根命を祖としています。

 

その後裔である菅原氏、秋篠氏、大枝氏(大江氏)も同様です。

 

右京  神別 天孫 土師宿祢  天穂日命の十二世の孫、可美飯入根命の後なり(右京神別)

 

摂津国 神別 天孫土師連 天穂日命十二世孫飯入根命之後也

 

和泉国 神別 天孫土師宿祢 天穂日命十四世孫野見宿祢之後也

 

鳥越憲三郎氏によれば、出雲神宝事件の登場人物は全て、出雲国造の系譜とは違う系統だとしています。

 

『国造世系譜』は少なくとも十一世から十四世に至る世代では、系統を異にするものを挿入していることは明らかであって、兄弟として並記している伊幣根命・甘美韓日狭・野見宿禰の名は除去しなければならないし、

 

また亦名として注記しているもの、すなわち阿多命の亦名出雲振根や氏祖命の亦名鵜濡渟命の名も無関係なものとして排除しなければならない。(鳥越憲三郎 『出雲神話の誕生』 講談社学術文庫)

 

関連記事 ⇒ 出雲振根命は生きていた! 大根(おおたわ)伝承

 

     ⇒ 野見宿禰の墓(4) 系譜の謎 

 

 

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